国泰寺派末寺
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 死・無心に生きる

人間がどうしても避けることのできない「死」。
なぜ不可避かというと、私たちは生きているからです。死に向かって生きているかぎり、「死」の命題はつきまとう。私たちは常にその生死の問題の最中に身を置いています。
ですが、常に最中に身を置いている割には、生死の問題を気にする時としない時があるのではないでしょうか。それも自分の勝手な都合で、生死を意識して、それに引きずられて、ただ苦しい時間を過ごしてしまう。
  空気の中にいるから 空気を意識しない/歩くときに 足を意識しない(相田みつを)
 というこの詩のように、私たちが、空気を吸うとき歩くときは下手に意識せず自然にやっています。これがいちいち意識して考えながらだったら難しい。
空気の中にいるのと同じように、私たちは生死の中に常にいるのですから、そこで生死を意識しないという生き方はどうでしょうか。生死を意識して生きることも難しいはずです。死ぬことを意識すれば、反対の生きることも意識しなければならない。 魚がどうやって水中で呼吸しているのかを考え出した途端、溺れて死んでしまうという昔話がありますが、私たちが生死を意識しすぎて考えすぎることが、生きることがものすごく辛くなる原因なのです。 ならば、もっと自然に空気を吸うように生きるにはどうすればいいのでしょうか。
   意識をするのは心です。その心とは、本来動き続けて決まった形の無いものです。
臨済宗の開祖、臨済義玄禅師はそのことを
心法形無うして十方に通貫す。(『臨済録』)
と示されました。心は常に動き続ける形の無いものである、だからいろいろなことに心が応じられるのだ、と。私たちが、普段の生活の中でいろんな出来事に応じていけるのも、心が動き続けて応じているからなのです。それを“無心”といいます。その無心は私たちが生まれながらに既に持っているものです。空気の中で空気を意識しない、歩くときに足を意識しない、そして生死の中にいて生死を意識しないという生き方が出来るのも、この無心のはたらきです。ところが私たちは無心のはたらきを持ってはいますが、使い方を完全にマスターしているわけではありません。だから無心が働く時と働かない時が出来てしまいます。
そうならないように、たとえば飛行機が着陸した後にちゃんと整備をして、各部の点検をして、燃料を入れて、いつでも飛び立てる状態になって、また飛んでいくように、私たちの心もよく整備していつでも飛び立てるような、動けるような無心の状態にしてあるか確かめる。その訓練が坐禅になります。坐禅で、ちゃんと動けるかを他人ではなく、自分で確かめるのです。
心が動いて無心でさえいれば、私たちはどんな一大事でも大丈夫です。一旦生死を意識して心が止まってしまっても、自分でまた動かせばいいのです。心が動ける状態ならばいつでも動かせるのですから。そうやって無心に生きることを心がけることが、死をうまく受け入れる生き方です。


2013、6、14 大本山建長寺 法話スペシャルに於いて「死・無心に生きる」と題して

臨済宗連合各派布教師

本派吉祥寺副住職 山田真隆 師

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