国泰寺派末寺
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 とらえるだけでは…

虎は、鳥獣、ひいては人をも「とらえる」ため、トラと呼ばれるようになったという説があるそうです。
虎だけでなく、私たちも日々いろんなものをとらえようと生活しているわけですが、とらえると同じくらい重要なことが、実は「放す」ことです。

どうしても、現代ではとらえる・手に入れることばかり、重視されがちで、「放す」方はあまり顧みられることは無いように感じます。

禅の言葉では「とらえる」ことを「把住(はじゅう)」と言い、「放す」ことを「放行(ほうぎょう)」と言います。国泰寺にも「把住放行」と書かれた額がかけられています。

空気を吐いて吸う呼吸のように、心の方でも「とらえた」ら「放す」、「放し」たら「とらえる」と、流れに随って、ありのままであればいいのですが、心が「とらえる」ことばかりにとらわれてしまっていたら、次の「放す」へのステップが踏めません。「とらえる」・把住と「放す」・放行は二つで一つのセットなのです。
だから「とらえる」だけだと、世の中はどんどん流れていくのに、私たちの心は取り残されてしまう、取り残された心はますます孤独になる。「無縄自縛(むじょうじばく)」という言葉もあるように、本来無いはずの縄で、自分で自分の心を縛り上げて、自由が利かなくなる。

そうした状況に終止符を打つには、「とらえる」だけでは駄目だということに気がつかなくてはなりません。

石垣りんさんの「くらし」という詩があります。


食らわずには生きてゆけない。 /メシを/野菜を/肉を/空気を/光を/水を/親を/きょうだいを/師を/

金もこころも/食らわずには生きてこれなかった。/

ふくれた腹をかかえ/口をぬぐえば/台所に散らばっている/にんじんのしっぽ/鳥の骨/
父のはらわた/四十の日暮れ/私の目にはじめてあふれる獣の涙。


石垣さんは、実母は四歳の時に亡くし、実父は三十七歳の時に亡くします。そして「四十の日暮れ」とありますから、父を亡くして四年たってこの詩を書いた。

自分が暮らす・生活することは、肉親や先生までも「食らわずには」生きられない、虎のような猛獣と同じように、何もかも「とらえて」しか生きてこなかったことに気づいた時、石垣さんの目には涙があふれていた、心の眼が開き、「放す」ことに気付いたといえます。


一旦「とらえた」ものを「放す」ことは、大変なことですが、そういった視点で生活を見直すのはいかがでしょうか。

※お話

臨済宗連合各派布教師

本派吉祥寺住職  山田真隆師

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