国泰寺派末寺
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「仏壇のある生活」

〔忘れがちな感謝〕

どんな時もご先祖への感謝を忘れないためにも、仏壇へは毎日お参りしたいものです。

ですが、日々生活に追われていますと、どうもこの感謝ということを、つい忘れてしまいがちです。なぜ率直に感謝できないのかといえば、私たちが本当の意味で感謝ということを、わかっていないからではないでしょうか。

〔感謝は「感」から〕

本当の感謝をするための第一歩が、「感じる」ということです。

感謝の感とは、分解しますと「咸」+「心」となります。「咸」という字は、「心を一つにする」という意味があります。ですから「感じる」とは、「心と心が一つになっていくこと」といえます。

似た字で「惑」というものがあります。「まどう」という字です。これは、先ほどの「感」と正反対の意味で、まず「或」という字は、「区切る」という意味を持ちます。「域」や「國」は、その意味が反映された漢字です。ですから「惑」は「区切られた心」ということができます。区切ってしまったら、一つになることはできません。

同じ「心」でも、上に乗るものが「咸」か、「或」かで、感じるか、惑うかが違ってくるのです。

私たちの日常をみるにつけ、どちらかといえば、心を一つにして感じていくことよりも、自分を優先するために、自分と他人を区切っていくことの方が多いのではないでしょうか。それなら感謝できないのは当たり前です。


〔「感」か「惑」か〕

そのことをよく教えてくれる、三重県の伊勢青少年研修センターに勤められた中山靖雄さん(1940~2015)という方の、お母様との逸話があります。

中山さんのお母様は、八十二歳で脳梗塞になって倒れてそれ以来、自宅で寝たきりの生活を送っていました。しかし、中山さんが講演に出かける時は必ず「今日はどこに行くんだ?」と聞いてきます。

中山さんが「どこどこへ行く」と答えると、お母様は「気をつけて行ってこいよ」と対応する。中山さんは「わかった。ありがとう」と答えてから、講演の仕事に向かうことが常だったそうです。

しかし、中山さんがもう家を出ようかという忙しい時に、さらにお母様は「何時から何時まで話すのか?」と聞いてくる。すると、中山さんは、つい自分の親だから出てしまうのですが、「そんなの聞いてどうするの?」とか「人のこと心配せんと自分のこと心配しなさい」とか、どうも冷たい物言いになってしまうのだそうです。

さらに、中山さんが「寝たきりだから、みんなに好かれる老人にならなあかんよ」と言いながら講演時間を答えると、お母様は「みんなに喜んでもらえるようにしっかり頑張ってこいよ」と言って、ベッドの上から見送ってくれるのでした。

そのあと、中山さんは家を出てから、もっと優しい言葉をかけてあげればよかったなあと、後悔の思いでいっぱいになるのだそうです。

そのお母様も九十歳で亡くなり、お葬式を済ませた後で、中山さんの奥さんがふとこう言いました、「お父さん、心配して下さる方が一人減ってさみしいね」。

その時、中山さんは、改めてお母様の言葉を思い出して、「おふくろが毎回行き先を聞いてきたのはわかるけども、なんで時間まで聞いたんだろうね」と奥さんに問いました。すると奥さんは「絶対お父さんには言わんで、って、お母さんは言っていたけど、時効だからもう話してもいいかな」と、こんな話をしてくれたそうです。

中山さんの講演が始まる頃になると、お母様は奥さんを呼び「講演が始まる時間だから悪いけどベッド半分起こして」と言って、ベッドの前の神棚に向かってじっと手を合わせるのです。寝たきりできちんとは座れませんが、腰と枕と毛布に体を当てて支えながら、なんとか座って講演の時間中、中山さんの無事をじっと祈っているのだそうです。お母様が講演時間をしつこく聞いたのはそのためだったのです。

中山さんはこの話を聞いた時、頭をガーンと殴られたようだ、と言われています。

自分が幾度となく講演に行って、今日も聴いて下さる方々と素晴らしい出会いを頂く、そのかげで、実はお母様が自分の無事を祈ってくれている。そんなことも知らずに、講演会が成功したのは、自分だけが頑張ってなし得たことだ、という気持ちになっていたことに、大いに自分を省みて、自分以上に自分を祈ってくれる世界があることを思い知ったそうです。

先ほどの「感」と「惑」の話でいえば、中山さんは、いつのまにか自分とお母様の関係を区切っていた。自分の講演のことは母親には関係ない、と心のどこかで思ってしまっていたのです。しかし、お母様はそんな中山さんと心を一つにするがごとく、講演の無事を祈り続けていたのです。

心を区切ってしまうと、自分が一体どんなものに支えられながら生きているのか、ということがわからなくなってきます。つまり本当の感謝ができないということです。本当の感謝をするには、まず私たちが心の区切りを取ることです。

〔仏壇に向き合う〕

その心の区切りを取るための行いとして、仏壇にお参りしてみてはいかがでしょうか。心の区切りをとれば、自ずと本当の感謝ができるようになります。

仏壇にお参りする時には、仏壇と向き合います。仏壇の荘(かざ)りつけとして、基本となる三つのものがあります。それは燭台と香炉と花立です。

もっとも明るく目を引くのはロウソクの灯明ではないでしょうか。それによって、まず自分の心をご先祖と一つになっていくように照らし見ていく。

香炉は線香を立てて、その場の空気を清めます。

最後に花立ですが、そこに生けられる花は供花ですから、本来は仏さまの方を向いているものですが、そうではなく、こちらを向いています。これはなぜかというと、私たちが仏さまにお供えした花を、仏さまがこちら側に向けて下さっているからだ、と以前知り合いの和尚さんから教わったことがあります。

花をこちらに向けて下さるということは、いつでも見守って下さっているということに他なりません。中山さんのお母様の話を彷彿とさせます。

結局、仏壇をお参りするということは、仏壇に向き合っている、仏さまに向き合っていると同時に、いかに多くの力によって、自分が支えられているかが、どこまで感じとれているかという、自分の心と向き合うということです。自分の心が今どうなっているか、区切る心なら惑う、一つになっているなら感謝ができる、向き合って確認してみるという、仏壇のお参りもやってみられてはいかがでしょうか。

〔仏壇という無言の啓示〕

歌人の九條武子さん(1887~1928)に「無言の啓示」(随筆『帰命』に所収)という文章があります。

狭い路の入口に、一基の警札が立てられていた。

「しずかにお通り下さい。」

恐しい勢いで奔(はし)ってきた自動車は、しかし速力を緩めようともしない。突然に現れたこの粗暴な闖(ちん)入者に、子供は驚き叫び、老人は逃げまどい、小路の平和はたちまちにして破られた。小路の平安をまもる厳かな警札も、自らの威力を誇るがごとく逸走し去る自動車の前には、一片の空文のように見えるのであった。

自動車は小路を通りぬけて、今しも広い大道に出でようとしたときに、そこにまた一基の立札が認められた。

「ありがとう。」

しずかに与えられた感謝のことばに、自動車を運転する人は、言いしれぬ愧(はず)かしさを覚えた。恵みのことばに値しない醜い自分が、そこに省りみられた。

やがて第二の小路が現われた。入口に立てられた警札は、なつかしき啓示をもって、自動車を迎え入れた。

「しずかにお通り下さい。」

諭しのままに進む自動車に、小路はもはやその平和を乱さなかった。小路の幸福は、また自動車を運転する者の幸福であった。

「ありがとう。」

小路のつきるときに、喚(よ)びかけられたこのめぐみの語(ことば)は、導きのままに生くるもののみに聴かれる、朗らかな祝福の声であった。祝福された心のよろこびをもつものは、無言の啓示の前に、何の愁いもなく、ただ虔(つつま)しき報謝の心をささぐるのみである。

この文章に登場する自動車の運転手は、まさに生活にせき立てられて、汲々(きゅうきゅう)としている私たちの姿です。狭い小路にも、猛スピードで突っ込んでいくようなことを、私たちは知らず知らずの間に、やってしまっています。

そこに現れる無言の啓示・立札、いわば、これが仏壇ではないでしょうか。

その啓示も、スピードを出して先を急ぐ運転手には、一向に目に入りません。とすれば、仏壇も、折角お家に具わっていても、私たちの気持ちが急いていれば、宝の持ち腐れということになります。

しかし、そんな運転手にも、気づきの時が訪れます。小道を出る時の「ありがとう」という立札を見た時です。

先ほど、仏さまは花を私たちに向けて下さっている、ということを申しましたが、この「ありがとう」という言葉も同じ意味です。小道を乱暴に通過しても、静かに通過しても、この「ありがとう」という立札が変わることはありません。だからこの「ありがとう」の立札は、私たちがどのように生きていても、見て下さっている仏さま・ご先祖と同じです。

そのことを感じ取ったのか、運転手は自分の行為を恥じ入ります。

私たちも仏壇に向かう時、自分を支えてくれているいろんな恵みに相値(あいお)う生き方ができているだろうか、と恥じる自分がいなければ嘘になります。その慙愧(ざんき)の念が本当の感謝への第一歩なのです。

そして運転手の目の前に、再び「しずかにお通り下さい」の立札が現れます。もう運転手は、その立札を見逃すことはありません。

静かに進む自動車。平穏を取り戻した小道は、そのまま運転手の心中だといってもいいでしょう。

このとき、立札と運転手の心が、まさに一つになったのです。

立て札と一つになった運転手の前に、見覚えのある立札が見えてきます。その「ありがとう」という立札を目にした時、運転手には何の愁いもなく、感謝の気持ちでいっぱいになったようです。

それと同じように、仏壇にお参りをして、祀られているご先祖と私たちが心を一つにしていくことによって、私たちの心にも本当に平穏が訪れ、率直に感謝できるようになるのです。このことは、私たち生きている者にとって、必ず大きな力になっていきます。

そんな心の癒やしの場が、各家庭にすでに具わっているのです。それは誠に素晴らしいことだと思います。

どうか仏壇のお参りをしていただきますよう、心からお願い申し上げます。

※お話

臨済宗連合各派布教師

本派吉祥寺住職  山田真隆師

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