鎌倉時代の末期、正安元(1299)年に、国泰寺は慈雲妙意(じうんみょうい)禅師によって開かれました。その開山禅師の教えとは、「己事究明」(自分自身のことを知れ)というものです。
禅師は信濃の某所でお生まれになっていますが、詳しいことはわかりません。それは人に聞かれても答えず、そればかりか聞く人にこう切り返したそうです、「あんた方は、他人のことばかり気にしすぎる。他人がどこで生まれようと、そんなことを気にしている暇があったら、もっと自分自身のことを勉強しなさい。何時誰の身の上にどういうことが起こるかわからんぞ。いつ自分の身の上に一大事が出来ても心配のない、心の眼を開かなくてはならん。あんた等の心の眼が開けたら、その時は儂(わし)の生まれた場所も両親の名前も教えよう」(稲葉心田老師著『心眼をひらく』)。
開山禅師が指摘されるように、現代の私たちは幅広くいろんな事を家庭や学校や会社で教わりますが、自分自身のことを勉強したかと言われると、私も含めて自信を持って返事をできる人はなかなかいない。他人のことなら気になりますが、自分自身のことには疎いのが現代の私たちです。
自分を知らないということは、自分にどんな“すばらしいはたらき”があるか?を知らないということです。
金子みすゞさんの「はすとにわとり」という詩があります。
どろのなかから/はすがさく。/それをするのは/はすじゃない。/
たまごのなかから/とりがでる。/それをするのは/とりじゃない。/
それにわたしは/気がついた。/それもわたしの/せいじゃない。/
泥の中の蓮が咲く、卵が孵化してひよこが出るのは、蓮やひよこの力だけではない。何か大きないろんな力がそうさせる。それに作者の金子さんは「気がついた」と言っています。
そしてその「気がつく」ということも、自分自身の力ではない、何か大きな力によると、気づくことが「自分自身のことを知る」ということです。
何でもない日常の光景、私たちが生きているということも、気がつけば、自分の力だけではなく、何か大きないろんな力によって生かされているということが分かります。
私たちにはそんな、“すばらしいはたらき”が生まれつき具わっていると、ブッダは言われました。
にもかかわらず、私たちは、他人を気にして、あれがない、これがないと、ないないづくしで不満を抱え、日々文句を言っている。そこから抜け出すのが、開山禅師の「己事究明」(自分自身のことを知れ)の教えです。
まず自分自身を知り、生かされていることに気づき、自分を活かすように行動する。私たちも日々の生活を、開山禅師が言われる通り、「己事究明」(自分自身のことを知れ)に勤めましょう
※お話
臨済宗連合各派布教師
本派吉祥寺住職 山田真隆師
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