国泰寺派末寺
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 禅とは

禅という言葉は、国泰寺の雪門禅師に参じられた事もある鈴木大拙(1870−1966)によって、世界に紹介された。
鈴木大拙は禅について以下のように述べている。

「禅は東洋の心である。
キリスト教を軸として、西欧中心に考えられてきたこれまでの世界史は、今や修正をせまられている。人類の将来に、禅仏教の果たす役割は大きい」

歴史的に言うと、インド禅があり、中国禅があり、日本禅がある。
今日国際的関心をよんでいるヨーガもまたインド禅のひとつである。

もともと禅という言葉は、瞑想を意味する古代インドのディヤーナ(dhiyāna)を中国の漢字で音写したときに生まれた。
牛に軛(くびき)をくくり付けるように、心をしっかりとした一つの対象に集中して、その安定をはかる訓練のことである。

今日禅仏教とよばれ、禅の思想とよばれるものは、西域の僧菩提達磨を初祖とする禅宗のことである。

雪の朝、黒衣のすそを高くかかげて、草履履きで街をゆく若い托鉢僧を見ると、人々はそこになおインド以来の出家生活の伝統が生きて続いているのに驚く。
禅の専門道場の生活は、毎朝なお暗い時にはじまる。
人知れずに禅堂の内外を清め、黙々と陰徳を積むのである。

「足下をみよ」(照顧脚下)というのは禅の生活の第一歩である。
陰徳とは、他人の指示や自らの道徳的な判断を持たぬ自発的善行のことである。
やむにやまれぬ行為である。

「全て自己の胸襟より出ずる」ようにするのが禅堂の生活のモットーである。
臥せば一畳、座せば半畳が生活の場所であり、朝は粥、昼食は飯を食うが、夜は雑炊で飢えをしのぐ。
一切の遊芸、詩文、文学、学問などはもちろん、禅の本を読むことすら禁じられる。
厳しい戒律の中で、ひたすら「己とは何か」と問うのである。

禅は、あたまで考える事じゃない、おのれのからだで味わうものだ、そうした見方がある。禅寺を訪ねて、禅の話を聞こうとするとき、最初にあびせられるのは「まあ坐れ」の一言である。