お彼岸は種まきの日
冬の厳しい寒さを乗り越えると、春のお彼岸を迎えられたというありがたさもひとしおです。こうして迎えることができたお彼岸に皆さんは何をされるでしょうか?
けふ彼岸菩提の種をまく日かな(松尾芭蕉)
という俳句があります。彼岸という今日を迎えた芭蕉は自分に問いかけました、「なにをすべき日だろうか?」と。そこで出た答えが「菩提の種をまく」ということでした。菩提とは「気づく」ということです。その気づきの種・きっかけをつくるのが彼岸だということです。
気づきの「気」とは、空気、元気など見えないものを指します。ですから私たちが生活していて普段見えていないものを発見する、それが気づきです。
いつもは見えない、目立たないが、いざとなったら助けてくれているもの、私たちは数多くのそういったものに生かされているといえます。
有り難い月明かり
私が高校生の頃、今から二〇年以上前の話です。山奥の寺に帰る道は、途中から街灯など明かりが一切無くなります。そんな片道十四キロほどの通学路を自転車で毎日通っていました。私は道のりの遠さと街灯が無いことに、当初は文句ばかり言っていました。 しかし実際通ってみると、街灯が無いと暗くて見えないかというと、そうではありませんでした。その時、夜道を帰る私を助けてくれたのは、月の明かりでした。普段はなんとも思わなかった月の明かりは、暗い夜道では非常に明るいのです。その明るさに、暗いと文句を言っていた自分が恥ずかしくなりました。 街灯が沢山ある町中なら、月の明かりなどたかが知れています。月明かりを頼りにすることもないでしょう。ですが、逆に街灯が無いという不便さが、かえって月明かりのありがたさを私に気づかせてくれたように思います。このように普段は目立たないが、いつも私たちを支えてくれているものは、身近なところにたくさんあるのです。
見えないけれど必ずある
金子みすゞ「星とたんぽぽ」
青いお空の底ふかく、
海の小石のそのやうに、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、
だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ。
見えぬものでもあるんだよ。
この金子みすゞさんの詩も、見えないけれど必ずあるもののことを謳っています。昼の星や、枯れたタンポポの根は確かに見えませんが、いざという時はちゃんと役割を果たすのです。
皆さんが、それぞれに自分にとって、見えないけれども支えてくれているものは何だろうか?と、ふと立ち止まって考えてみる、というのが芭蕉のいう「菩提の種をまく」ということです。
供養ということ
そうやって種をまいてみると、菩提の芽が出てくることになります。芽を出すために必要な養分が「供養」という行いです。
供養とは、一般には神仏やご先祖に供物を捧げることと理解されていますが、今回はもう少し掘り下げてみましょう。供養は、もとは供給資養(くきゅうしよう)という言葉を略したものです。供給とは文字通りお供えをすること、資養とは資(元手)を養うことです。このうち供給の意味が、供養という言葉のイメージを強く表していますが、忘れられがちなのが資養ということです。
では、私たち人間の資・元手とは何でしょう?
それは「心・こころ」に他なりません。私たちのすべての行動のもとは心だからです。
ですから資養とは、言い換えれば心を養うことです。供養をするとき、どうもお供えをすることばかり気をとられて、その行いのもとである自分の心を養うということが、いい加減になってはいないでしょうか?供養とは、供給と資養、お供えすることと心を養うことが、二つそろって初めて行われるのです。
初なりのスイカ
ある村のお百姓さんの畑に、初なりのスイカができました。お百姓さんはそのスイカを仏様にお供えするために村のお寺に向かいました。しばらく行くと、道の途中で腹を空かせた子供に会いました。お百姓さんはその子供がかわいそうだったので、持っていた初なりのスイカをあげてしまいました。初なりというからには一つしかありません。仕方がないのでお百姓さんはそのままお寺に行き、和尚さんに訳を話しました。すると和尚さんはこう言いました、「仏様が本当に召し上がりたいのは、初なりのスイカそのものではない。スイカを指し出したお前さんのその心なのだよ。今日はその心をお供えして帰りなさい」と。
このお百姓さんが、スイカをお供えすることだけにこだわっていたら、腹を空かせている子供も目に入ることはなく、無視してそのままお寺に向かったでしょう。しかしかわいそうな子供を見たことで、お百姓さんの心が養なわれたのです。そのおかげで、まことの供養を行うことができました。そして本当にお供えしなければならないのは、養われた心だということを知ることができました。
ご先祖の供養
皆さんももちろんお彼岸中には、ご先祖の供養をされることでしょう。その時にぜひこの初なりのスイカの話を思い出してください。まことの供養をすることは、亡くなった人のためばかりでなく、心を養うことで生きている私たちの力にもなります。そしてそうすることは、人知れず私たちを支えてくれているご先祖のねがいでもあります。
詩人の坂村真民さんに「ねがい」という詩があります。
見えない
根たちの
ねがいがこもって
あのように
美しい花となるのだ
この詩のごとく、亡くなられたご先祖は見えない根のように、必ず私たちをしっかりと支えてくれています。そして私たちにねがいを託しています。美しい花となってほしい、と。
美しい花をさかせることも一粒の種をまくことから始まります。お彼岸には、気づきという種をまいて、供養という養分で育て、皆さんも私もそれぞれの心の中に美しい花を咲かせていくようにつとめたいものです。
※お話
臨済宗連合各派布教師
本派吉祥寺住職 山田真隆師
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