国泰寺派末寺
リンク

z

k

f

y
 開山慧日聖光国師について

開山慧日聖光国師慈雲妙意禅師は、文永11年(1274)、信濃国(長野県)に生を受けられた。

幼くして両親を亡くし、そのこともあって憐れみ深い性格であられたと言われ、また幼少から才知に優れられていた。

弘安8年(1285)、 12歳で越後の五智山にて剃髪された。 その後上野国(群馬県)の日光山で天台教学を中心に学び、 さらに禅の教えに関心を寄せられ、各地を遍歴された。

その途中、 永仁4年(1296)に越中関野(富山県高岡市)の二上山権現の祠の前に庵を結ばれた。 そこで一切の俗事から離れて、修行に励むことにされたのである。

翌年永仁5年の秋になって、孤峯覚明禅師がこの草庵を訪れられた。 覚明禅師から、その師の無本覚心禅師(1207−1298)の禅風を聞かれた 御開山は、覚明禅師に伴われて紀伊由良(和歌山県)の興国寺に行かれ、参じられることとなったのである。

ある日、 覚心禅師に対して、「心即是佛、如如としていにしえにわたり、今にわたると言われるが、古今にわたらないものが、あるでしょうか」と質問されたところ、覚心禅師は手に持っていた茶碗を投げつけられ、茶碗は粉々に砕けた。 その瞬間、御開山は大悟されたと伝えられる。

覚心禅師は御開山に菩薩戒を授け、宋の無門慧開より授かった法系図、達摩大師絵図、七葉図、『無門関』、払子、如意などを授けられた。

その後御開山は覚心禅師の元を辞し、孤峯覚明禅師の開かれた出雲の雲樹寺へ行かれ、さらに修行を積まれ、印可を受けられた。

その後正安元年(1299)に二上山に帰り、再び修行に励まれたが、御開山を慕う地元の領主が、荘園を寄進して、嘉元2年(1304)に、摩頂山東松寺を創建し、開山とされたのである。

その徳風はやがて遠く都の後醍醐天皇の耳にも届くようになり、嘉暦2年(1327)天皇は御開山を宮中に召して禅の教えを受け、それに満足した天皇は、御開山に「清泉禅師」の号と、紫衣、七条袈裟、肉付払子、勅詠一首などを下賜なさった。

後醍醐天皇からはその翌年「護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺」の勅額が 下賜されたため、東松寺を改めて国泰寺と号し、国泰寺は朝廷の敕願寺となった。

また康永3年(1344)に北朝の光明天皇からも、禅のおしえに関する質問を受けられた。この時もお答えに満足した光明天皇から、紫衣と栴檀香が下賜された。

貞和元年(1345)6月2日、御開山は弟子らを集めて訓戒を述べ、その翌日の6月3日、遺偈をしたためた後、示寂された。72歳の御生涯であった。

弟子らは御遺骨を国泰寺境内に塔を建てて納め、その上に室を構えて「大円」の扁額を掲げた。この塔には光明天皇より「正脈塔」の号が下賜されている。

さらに翌貞和2年には御開山に対して「慧日聖光国師」の号が贈られたのである。