- 国泰寺の開山について
国泰寺は北陸路には数少ない臨済禅の道場で、臨済宗国泰寺派の大本山である。
開山の慈雲妙意禅師(1274−1345)は、行脚の時、二上山の幽玄の境にひかれて、山中の草庵で独り坐禅に励まれていた。
たまたま通りかかった孤峯覚明禅師(島根県雲樹寺の御開山。三光国師)に誘われて、紀伊由良の西方寺(現興国寺)の無本覚心禅師(法灯国師)に参じて大悟されたが、まもなく師の遷化(せんげ。お亡くなりになること)に遭い、二上山に戻られ、悟後の修行に励まれた。
やがてその禅風を慕って雲水が集まり、嘉元2年(1304)には摩頂山東松寺を開創された。
嘉暦2年(1327)には宮中に参内されて後醍醐天皇に法要をお説きになり、 「清泉禅師」の号を賜られた。
翌年には「護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺」の勅額を下賜され、勅願寺となった。
康永4年(1345)6月3日、「天に月あり。地に泉あり」の遺偈を残して、72歳をもって示寂された。北朝の光明天皇より「慧日聖光国師」の諡号を受けられた。
塔を「正脈」と号し、室を「大円」という。
その後、天正13年(1585)現在地に移った。
- 江戸時代の大修復
江戸時代になって、貞亨3年(1686)に現在の大方丈が建立され、当時の将軍綱吉は国泰寺を「法燈派大本山」と定め、享保年間には萬壑(ばんがく)禅師等によって伽藍の大整備が行われてほぼ現在の形になった。
- 明治時代の再興
明治維新では廃仏毀釈の余波を受けたが、越叟・雪門両禅師は山岡鉄舟居士の尽力を受けて、修復を果たした。
- 西田幾多郎、鈴木大拙居士の参禅
若き日の西田幾多郎や鈴木大拙は、雪門玄松禅師に参じた。
- 稲葉心田管長と利生塔
先住稲葉心田管長は「人命尊重」を祈願されて利生塔の建立や堂宇の整備に尽力された。
また、大衆のために広く禅堂を開放して、団体・個人の坐禅指導に当たられた。
御開山のお言葉を奉じて、現在も大衆に開かれた禅道場をめざして励んでいる。